「連句ーー流動する創造空間」(「建築雑誌 」2000年3月号発行 建築学会)

矢崎藍(作家・桜花学園大学教授)
やざきあい
東京生まれ お茶の水女子大学卒業 著書に「女と男のいる古典の世界」「みもこがれつつーー物語百人一首」「平成付け句交差点」「連句恋々」「おしゃべり連句講座」など多数。連句協会理事 

付けと転じの鎖

 この国の歴史が千年はぐくんできた付け合い文芸は、近代にほぼ衰退したといわれながら、ここ半世紀で現代連句としてよみがえった。リアルタイムのインターネットというメディアには相性がよい。私が昨年開設したホームページの掲示板上では、不特定多数が句を付けてゆく鎖連句が1本、えんえんとつながりはじめた。

 167 リストラに若年退職肩叩き          小町
 168  いち、にっ、さん、し、と続く人生     おはぎ 
 169 終了の合図鳴ってる洗濯機         聖子
 170 濃すぎるかしらけさの口紅          藍

 いきいきと各世代の生活がうつされ、1日に10句から20句はすすむので、のぞくだけの観客もかなり多い。(HPのカウンターは1日に80から100あがる)もちろんメンバーは全国、いや、カリフォルニア州から真夜中の書き込みもある。口語体でまったく自由に見えるが、参加者にはただの連想ではなく「連句」であることの確保を要求している。基本ルールは、 ①575句と77句を交互に付けること。②前の句と(なんらかの意味で)つながりがあること。そしてもうひとつ重要なのが③前の前の句(打越句)から転じる(三句目の転じ)というルールである。たとえば、

 224 別れる理由できてすっきり           藍
 225明日から晴れて私は自由の身         杏

のあとに、誰かが

  (226 三行半は女から書く)  

と付けたらどうか。スタッフからストップがかかる。別れる話が三句続いている。これは「三句がらみ」といってよくない。 付け句(226)は前句に付きながら打越の別れの話から意識して離れなくてはいけない。実際には次の句は

  (225明日から晴れて私は自由の身 )
 226 狂ったように蝉が鳴き出す           聖子

となっている。打越句と関係なくここには明日から自由の身になる人がいて、急に蝉が鳴き出す。「狂ったように」は心象風景でもある。この蝉の句が付いたとたんに、225句での人は蝉の声を、立ちつくして聞く姿として現れる。付け句は前の句のそれまでもっていた意味や色合いを変質させる。これが「転じ」のおもしろさである。
 つぎのような3句も「観音開き」といって忌避される。

  241縁側に足跡光るかたつむり            杏
  242 刑事稼業でつい鋭い目             藍
  (243 玄関にことりと音をさせて猫)

 真ん中の刑事は、かたつむりの光る筋を見て反応しているが、同時に猫の物音にも反応している。刑事の句と前後の句は関係が同じーーつまり観音様の厨子の扉のように対称形になっている。縁側―玄関(建物)、蝸牛―猫(生類)と単語も同種で呼応している。
 こういう繰り返しを「輪廻」ともいう。陥ってはならぬ繰り返しの煉獄! とはおおげさだが。ここは実際にはこう付いた。

  (241縁側に足跡光るかたつむり)
  (242 刑事稼業でつい鋭い目 )
 243アンパンを缶コーヒーで流しこみ        おはぎ

 243は刑事の日常の多忙な部分で前句に付き、蝸牛とは関係ない。そこで次には

   (アンパンを缶コーヒーで流しこみ)
 244 青春キップ行けるとこまで             聖子

と、刑事とはまったく違う主人公の、別の物語が開けた。そう、こうして連句は転じて前進する。
 対称形は日本人の伝統的美意識では評価が低い。連句の角度からいえば、とにかく停滞と反復はつまらない。一句が付いた瞬間にこれまでの世界が変わる新鮮さ、流動する空間が魅力である。
 かくて連句はどの部分の3句をとっても前句とは付き、打越句とは関係なく、2句ずつの場面がずれてゆく。おそらく世界中にこういう文体をもつ文芸はないので、そこに連句のユニークさがあるし、同時にこのジャンルが近代社会で理解されず苦渋の歴史をたどったゆえんもある。

 4324 返り血浴びた君は綺麗で          かっち
 4325ヴァルハラへ帰ろうワルキューレとともに  カンちゃん
 4326 幸も不幸も決断の先               彩葉

 現時点の6月なかばに4300番をこえ増殖している鎖連句は、付けと転じが一般の人にどのくらい共鳴されるものなのか、私のちょっとした公開実験でもある。

歌仙の構成美と重層空間

「歌仙は三十六歩。一歩も後に帰る心なし、行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へゆく心なればなり」(三冊子)は松尾芭蕉の言である。付けと転じのメカニズムをもつ連句の本質と精神を言い切っている。
 伝統連句(俳諧連歌略して俳諧)は連歌に倣い百韻、(100句)五十韻(50句)歌仙(36句)などのような定数連句が主体である。文体は流れつつも、完結した長さの作品として読者をもつ。必然的に内部に構成を追究し、人事と四季自然を一巻の宇宙に凝縮させる。中で歌仙作品を芸術として昇華させたのが芭蕉だ。その蕉風俳諧の精神と方法論、技法は、口伝等により継承され、いまも現代連句の基礎となっている。
現代に俳諧の伝統を継承し俳諧師の呼称を自他ともに許す存在は少ない。この春、蕉風伊勢派の猫蓑庵東明雅氏(信州大学名誉教授)と同じく伊勢派の先達、山猫庵片山多迦夫氏の両俳諧師と三吟歌仙を巻く機会を得た。この世界は四十五十は鼻たれ小僧であり、私もまだその際にいるので、いわば「胸を借りた」のである。
ここでは付け心(二句の付け合いの物語的解釈)とともに、付け味(二句の感性的な触発、融合)が重視される。いわゆる匂い、響き、うつりなどの付けの分析をこえ、無限の付けの美、詩情がありうる。
もっとも、俳諧の本義は、おどけ、たわむれ、演技、ユーモアなど解釈される。連句はいつも底に遊び心をもっている。
両俳諧師も南柏「猫蓑庵」(当然猿蓑のもじりである)北摂「山猫庵」(何か獰猛!)と庵号を名乗り、実は私も(まだ若いので! 庵とこそいわないが)参州めぎつねを称しているぞ。コン。
その歌仙「風眩し」の巻は早春の風が光るころ、東・西・中部に住む三者をFAXでつなぎ、かろやかにはじまった。

1 スニーカー風が眩しくなりにけり    明雅
2   ミモザたわわに学園の坂        藍
3  しゃぼん玉弾けし顔を拭ふらん      迦

 全36句は歌仙を書き留める懐紙式で、初折表(6句)裏(12句)名残表(12句)裏(6句)のいわば4頁を、雅楽に因み、序、破一段、破二段、急という基本的な流れとし、その上で三者がエネルギーバランスをとりながら展開してゆく。
 具体的にはひとりが付け句案を5句程送り、次の人がそこから1句を選び治定し、それに5句の案を付けて次へ送りーーを繰り返す。つまり、このようなFAXが「北摂山猫庵」発「めぎつね殿」宛でくる。

「19 隊商は落日追ひて絹の道    雅
     試 詠         迦
  ・真紅のワイン翳す乾杯
  ・ロゼのワインは十樽もある
  ・捕虫瓶には蠍三匹
  ・確かに丸き水の惑星
  ・砂塵に堪ゆる六字名号 」

どれを選ぼう。付け心も付け味も違う。隊商の夜の乾杯か,積み荷のワインか、捕虫瓶の毒のある蠍か。砂塵の中の南無阿弥陀仏か。私は4つめの「水の惑星」を選んだ。それは前句の絹の道を過去にし、砂漠の丸い地平線さえ極小化して、宇宙の視点から地球を見る。これに数句を案じる!

  20 確かに丸き水の惑星      迦
   ・ふと消えしインターネットの交信者   
   ・キー叩く無辺の自由わがものに
   ・朱鷺一羽フェンスに首をさしのべて
   ・揺り篭とブランドバッグと銃声と
   ・ご不要の肺を少うし下さいな

 猫簑庵選択により「キー叩く」が治定されたときは「やったぜ」と思う。不遜なネット社会批判が通じたか。しかし俳諧師とはしたたかなもの。すぐ、いなされる。

21キー叩く無辺の自由わがものに   藍
22 頭痛肩凝り魔女の一撃         雅  

 魔女の一撃は腰痛。確かにパソコン叩きは健康によくないわい。
――と36句解説するには紙数が足りない。こうして三者が選択と付け句を繰り返し作り上げたこの巻の破二段、クライマックスの部分を少し報告する。

25潮騒の胸にとどろく午下り        雅
26 男いっぴき嫉妬などせず         迦

男いっぴきを選んだのは私である。内容も面白いが次を付ける者としては、切っ先を胸元につきつけられたような緊張感がある。この迫力に負けてはいけない。私案。

   ・抱きしめて背徳の香の匂ひたつ    
   ・家を出るノラなりガスの火を止めて
   ・紅芙蓉キスもじょうずになりまして
   ・誰をのせ赤いシビック発進し
   ・死にたいと電話してゐる白桔梗

 ひそかに期待していた白桔梗の句が治定された。白い桔梗は門のわきにひそっと咲く。昭和の時代を、肩意地張った男の陰で生きてきて、昨今の自由な女たちを見れば、愚痴のひとつもこぼしたくなるような、和服姿の楚々とした女性である。しかしこれに次の句が付いたときは、ぞくっとした。

27 死にたいと電話してゐる白桔梗  藍
28 人の世の秋 夢の浮橋      雅

夢の浮橋といえば『源氏物語』の最後の巻名である。薫中将との恋にやぶれ、暗い河に身を投げた浮舟の女のはかない物語。54帖こそはさまざまざまな女のあはれをうかべた夢の浮橋である。しかもその夢の浮橋を200年後に藤原定家が「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」と濃密な情緒美にしあげた。
時はすぎ現代の秋になっても、その千年の夢の浮橋は、とだえとだえつ、電話で「もう死にたいの」と言っている白桔梗のような女のなかにただよっている。
そしてこの春の情緒を秋にひきこんだ手法である。「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べを秋と何思ひけむ」という後鳥羽院の歌。そのまた250年忌奉納連歌での宗祇の発句「雪ながら山もと霞む夕べかな」も思い出される。――解説してしまうと手のこんだ技法に見えてしまうのだが、白桔梗の女に付いた「人の世の秋夢の浮橋」のたった一句の奥には日本の文学の美意識の歴史を重層的にうけとめざるをえない。かくてつぎは月の座

(人の世の秋 夢の浮橋    雅)
29雲走り今宵の玉兎奔放に     迦

白桔梗の弱々しさから転じ、大空の気配は急である。これはむしろ前句から定家の幽玄を意識して付けている。玉兎という月の異名のおもしろいこと。兎が跳ねているような、月が踊っているような。
季語の存在にもいえることだが、和歌、連歌、俳諧の歴史が集積してきた語彙を駆使し、重層的に二句の空間(付け合い)を作る―――まさに古典から受け継がれてきた美意識である。
次に付ける私は兎が奔放に跳ねる夜空をそのまま現代の幻想的な空としてみた。月下には大都市が広がる。

  ( 雲走り今宵の玉兎奔放に)
30 ビルの頂上シャベルカー居る  藍

句の多義性と人の多様性

前句に多数の句が付くのも、転じを工夫できるのも、短い一句に多義性があるからである。しかも一句の表現している空間の解釈は読む者によって違う。その違いが新しい付けによる新しい空間を生み、未来への選択が行われる。
不思議な文芸行動といえないこともない。しかし考えてみれば私たちは日常をそういう空間に生きている。人生は一刻もとどまりはしない。ユニークどころかあたりまえすぎる、プリミティブな文芸ではないか。
連句はこれまで生身の人間が集まり顔を突き合わせる「座」でおこなわれてきたし、現在も多くの結社、グループが会合や大会を開いている。私の講義でも毎年多数の学生が座に分かれ短い型式の連句を巻く。比較文化学科なので、留学生をいれた国際連句にも挑戦する。創作の集中力がぶつかりあう現場には、一種のハイな空間が出現する。彼らは「すごい体験」という。実は国際連句協会も数年前から活動をひろげ、連句は世界に足をふみだそうとしている。言語、思想、習慣の違いは、壁である。しかし、同時に互いの好奇心をかきたてる火種でもある。世界は確実に違いを認めつつ共感を探る時代にはいっている。
インターネット連句は未知の人との、言葉のみによる、虚構のつきあいだ。おそらく私たちはバーチャルに堪え、未来を生きるのである。インターネットの鎖連句には今日もまた誰かが、「はじめまして」と挨拶して、句を付けている。

4454 なんじゃもんじゃの枝が繁って           蕗
4455 風さやか私あなたの何なのよ       ラプソディー
4456 蜜月終わる人と原発                白石
4457渓流が奏でる時の子守唄              かっち

 私も付けよう。

4458 てんとう虫がふっと翔びたつ            藍

人は、いつも自由をもとめている。