猫んばアメリカ行き(矢作新報 掲載)

も く じ

(矢作新報に掲載 1992.2.28.-93.3.19.)
nekonba0.jpg1. 顔手足で英会話の ホームステイです
2. 樹を伐ることリスを殺すことと老女の命 
3. あのブラックバードの名はブラックバード!
4. サンフランシスコの怪しい東洋人たち!
5.西部劇の赤土の荒野で芭蕉に逢う!
6.くたびれてひとり留守番のサンタフェ
7. 旅はいろいろミルウォーキー
8. アン王女と十二歳のアンと
9. ミシガン湖を狸に乗って渡る
10.ねずみと芸術家の住む街ソーホ
11.太腿が焦がれた文学散歩!
12.マンハッタン日米連句狂い
13.名残の薔薇に詩が燃えて

1.顔手足で英会話の ホームステイです

 こんにちは。源氏物語をお休みしてアメリカのお話させてくださいね。
 えっ。古典からアメリカ? なんたる飛躍! ええ、私自身アメリカの街を歩きながら、なんだって私はアメリカへ、しかも連句という伝統文学が理由で来てしまったんだろうと何度も思いました。 でもね、伝統的なものは古いから価値があるんじゃありません。 かといって古いものはダサイというのでもない。私は学生時代に連句に興味をもち、その起源をたどって古典和歌にまで行きました。そう。おもしろいから追いかけるんです。そう思えば千年前にさかのぼるのも、海を渡るのも、たぶん同じことなんです。

beth.jpg  それにしても私の英語力は学校出て以来。大丈夫でしょうか。実は到着した日のカーメルでは、彫刻家さんのお家にひとりでホームステイすることになっていました。
 それで行きの飛行機の中で英会話の本をあけたんです。買ってから初めて。そんなのまにあわない? ええ。でもね、時間がなかった。私の仕事はすべて請けおい仕事です。八月いっぱい休むので七月にはいつもの二倍の仕事をしたんです。最後の原稿をファクスで送ったのが出発二日前でしたもの。それでも少しはなんとかしなくっちゃと、機内で私は辞書をひき、自己紹介の文句を英作文したり。家族のこと、仕事のこと。エート、エート、単語をずいぶん忘れてるなあ!

(写真はカーメルのホストファミリー、ベスさんとホランドさん母子と)

 そんな機内でちょっと私から、

 アメリカへ連句ツアーよ四十雀    藍

 ピーチクパーチクと四十雀みたいににぎやかに旅をしようという呼びかけです。
「参加者の平均年齢でいえば五十雀じゃないの」
なんて文句が出ました。 いいでしょ。四十にマケとき!
 つぎの句がすぐに書かれてきました。今度の旅の主催者の近藤正先生。

    日焼けの肩にバッグくいこむ   蕉肝

 なるほど。さすがにリーダーは責任感があるので、バッグが肩にくいこんでいる。英語学の教授ですが雅号が蕉肝。芭蕉の肝というだけあって若くてパワフルで、誰かが、"鉄人"だといってました。(空手やるらしい!)
 この日もワープロのはいった重いバッグを機内持ちこみしています。これからさき一ケ月の旅の間じゅう、できあがった作品はどんどん彼によって英訳日本語訳され、このワープロで仕上がっていったのです。「四十雀」の巻も以後ちゃんとまわって三十六句の歌仙になります。初めは日本人ばかりで。じきに国際色豊かになってー。ううむ。連句ツアーってこういう旅なんです。

 さて、旅のはじめの地カーメルは一年中気候はいいし、海岸沿いで森の多い、美しい町。別荘のような高級住宅が、木々の間にしゃれた屋根を見せています。
私が泊めていただいたベス・ガルシアさんのおうちも、カーブした道のところに郵便受けがあって、そこから森の中の細道を下ります。坂の奥に車庫が見えて、フォルクスワーゲンの赤と白の二台がとまっていました。赤がお母さんのベスさんの車。白は息子さんのホランドさんの車。
 大きな木々に囲まれています。樫もあるし、松も多いのです。ベランダに出るとお隣近所がぜんぜん見えず、まったく森の中のよう。
 餌台に小鳥がたくさんきています。木の幹にいるのは、あれ、キツツキじゃないの。尾の青い鳥が飛びたちました。 「ブルージェイ」とベスさんが教えてくれました。
 白い髪の優しいお母さん、ベスさんがこの家の主で、彫刻家だとか。居間に入ると、あらあら、そこらじゅう小さな動物だらけです。鹿の親子に、熊の親子、寝そべっているラッコじゃれている豹、ユニコーン。それこそ数限りない動物たちが壁や棚を埋めていて、これがみんなベスさんの作品です。木彫りもあるし、 ブロンズも陶の焼き物もあります。金細工もガラス細工もステンドグラスも。
 この部屋の窓べで、ぶどうパンにブルーベリーのジャムをのせて、いい香りのコーヒーカップをいただくと、童話の中にいるみたい。

bigsur.jpg そこへホランドさんが現れました。彼は作曲家でピアニスト。この近くの有名な海岸BIG SURを題にしたピアノ曲のCDも出ています。こういう環境だと私は片言でも元気にお話してしまいます。美しいもの、創ることに関係のある話なら楽しいし、何かが通じますからね。
 もっとも、最初にわかったのは、Rが苦手なのだということ。自分の発音のLとRがいいかげんなのは知っていましたけど、ヒアリングもひどい。ベスさんの愛犬の名をベルと聞いたつもりが、熊(ベア)なんです。電話でワンターリと聞こえるのを何度も聞き返し、一時と二時の間とまで説明され、ようやく一時三十分と気づいたり。なんという迷惑な東洋からのお客でしょうね。顔と手はもちろん、必要あらば足も使う覚悟の英会話の旅も、ここに始まったのでした。

樹を伐ることリスを殺すことと老女の命

 カーメルではパーテイーが多く、ベスさんの家に、私は時々夜おそく帰ります。お部屋は鍵を借りていけば、直接入れます。バストイレ付きですから帰ってからシャワーを浴びるんです。
夜遊び娘の心境。朝、部屋の掃除機を使おうとしたらちょっとした時代物でした。パイプ部分が真鋳。金属部分が多く重いのです。上のキチンに行くとこれも大きいごつい洗濯機がまわっています。オーブンもレンジも、三十年四十年は使いこんでいるーーこういう歴史を家の機械がもっているのは羨しいことですね。

 さて国際連句の始まりは、カーメルでの連句行のお世話を一手に引き受けているリキータさんのお家でのパーテイーです。リキータさんはいかにも華やかな建築デザイナーさん。その日本趣味いっぱいの居間でのスピーチで真空さんがつぎの句を発表したのです。


(写真は右から晩秋(リキータ)さん、栗子(クリス)さん、初雪(エリザベス)さん)

 1 朝日の出青嶺近き樹々の間    真空 

chris.jpg真空は国士館大学の教授の福田真久先生の雅号です。私たちは姓を呼ぶときは"福田先生"といい雅号のときは"真空さん"と呼びます。(近藤正先生もふだんは号の"蕉肝さん"です) この発句に共感があったので、私は後で自分のスピーチの番がまわったとき、それに脇を付けました。

2  愉快な旅を告げるブルージェイ  藍 

ブルージェイはそ昨日ベスさんの森の家のベランダで見た青い尾のカケス。
「三句めを付けてください」と結んだのですが、さすがにアメリカ側の二十数人のお客さまより声なしー。でも、その晩にリキータさんが車で真空さんと私を、作家のエリザベスさんのお家に連れていってくれました。蕉肝さんクリスさん一家が泊まっているこのお家もまだ新しくデラックスですが、リキータさんが設計したのだとか。ステキなお友だちですねえ。「あの二句の続きをしてみましょう」といいだしたのは蕉肝さんです。
「明日の予行演習にもなるし」  明日ーーそれはツアーの予定表で最初の連句会でした。私は大賛成。目まぐるしい英語のるつぼの中にいて、いったいどうやって連句をするのか、見当もつかないという感じでしたから。  だから、ダイニングのテーブルで、まず蕉肝さんが真空さんの句と私の句を英語に訳し、それをリキータさんとエリザベスさんに読んで聞かせているのをじっと見つめていたわけなんです。

rising sun/green mountain near/between trees   Shinku
blue jay foretells/joyful journey         Ai

やがて明日用に切ってあった短冊がとられ鉛筆で横に三行詩が書かれます。

around  the  table/plates and cups/full with talk       banshu
  3 (テーブルの食器に話満ち足りて)    晩秋

ええ。リキータさんは晩秋という雅号を持っているのですよ。ハイク詩人です。クリスさんが四句目を付けました。クリスさんは東京工芸女子短大で英会話を教えながら日本画を勉強しています。画家としても連句人としても雅号は栗子です。

a variety of patterns/designers dedication Kris
  4  多様なパターン図案家の献身  栗子

 このあとエリザベスさんに月の句を付けてもらったのですが、最初エリザベスさんが簾を透かしてさす月の光のきれいな句を詠んでくださったのに、私は「あのお。前の前の句にテーブルが出ていまして、ここは家具や建物用語は式目で禁じられてるんです」なんていってしまいました。ええ、連句には伝統的な式目(ルール)があるんです。このおせっかいに「ワンスモアトライ」とさっと短冊をとりもどして考えて書き直すエリザベスさんでした。彼女もまた「初雪」という雅号をもつハイク詩人。作家でもあるし言葉には自信があるはず。でも新しい詩の型式としての連句がルールをもっているなら、それを素直に受け入れようとしているのだとわかりました。

unwilling to sleep/the full moon streams/only myself towatch  Elisabeth
5 一人見る満月眠りたくもなし    エリザベス
waves of the first tide/ gentle pine breeze  Shokan   
6 松風やさし初潮の波  蕉肝

蕉肝さんがルールどおり秋三句つづけて、表六句のできあがり。

帰りの車で私の頭は英作文中。えーと、「私は英語と日本語とで連句をすることが可能かどうか心配だったけれど、今夜の表六句で、すっかり安心した。うれしいーー」といおうと思ったんです。で、ようやく言いはじめたら、途中でつまってしまいました。運転していたリキータさんはブレーキをふんで車を停めて私の次の言葉を待ちます。ようやく言えるとリキータさんがにっこりして(暗かったいけれど、確かにね)「ベリグッド。オーケー」明日いい連句をしようと言って発車。暗い森の道のドライブ。でも、たどたどしい英語で何かが通じたなあというハッピーなひとときでした。

risu.jpgところで この晩車はもう一度急停車しました。大きな松の木が道のまん中にあったのです。だいたいこの町では道は木があるとそれを避けカーブしています。「木を大事にしているんですね」といったらリキータさんは「カーメルでは、"木を伐ったりリスを殺すくらいなら老女を殺すほうがまし"といわれている」と笑いました。
 え? 老女を殺したほうがまし? ひどーい。なぜ老女なの?
 でもこれは老女が役にたたないからではなく一番守るべき大事な存在なので、それよりもっと木やリスを大事にするということがいいたいんだそうです。
 帰ってからノートして翌朝ベスさんに話すと、スタインベックの言葉を教えてくれました。
「進歩はなぜしばしば破壊に似るのか」
その英語を私がすらすらとノートに書くのを見て、ベスさんがびっくりした顔でほめてくれました。受験英語で読み書きはよくやった私。でも、書くのとしゃべるのとあまりの落差ナノダ! エーン。

あのブラックバードの名はブラックバード!

anna.JPGあくる朝ベスさんが新聞のトップ記事を見せてくれました。山火事の写真が大きくカラーで載っていました。もう何日も火が消えないのだそうです。
「カリフォルニア州ではここ六年、雨らしい雨が降っていない」とベスさんは説明します。六年!
それで毎日シャワーを浴びたり、洗濯機を使えるなんて。街の中を歩けば芝生にはスプリンクラーもまわっていますよ。「もちろん私たちは無駄な水を使わないようにしているし、行政も節水を呼びかけている」とベスさん。
 ただ、もともとこの土地は一年中温暖ではあるけれど乾燥地帯なんです。遠くの川から水路をひき灌漑施設を完備した上での、豊かな街です。
 六年の乾燥は厳しいけれどまだ日常生活を脅かす条件ではない。
「でも、作物は被害を受けているし、自然も苦労している」
と、ベスさんは眉をひそめました。山火事で死んでゆく動物たちが可哀そうだと。鹿や兎や、栗鼠や小鳥たちーーみんなベスさんの作品のモチーフですものね。木もモントレー杉など、この乾燥地帯に昔からある樹は根を地に深く張っているけれど、松などはそれに比べて根が浅いので、枯れるものもあるとか。やがて五日目、ベスさんとお別れしてサンフランシスコへ走る車の外の山々も、丈の低い草が枯れていました。 時折ある木も錆び色です。日本の晩秋の浅茅が原のようですけれど、本当はこれは緑の草原でなくてはならないのですね。この日も陽光がまぶしい。 わずかな雲はいつも遠くの山のあたりに吹き寄せられ、ただまっ青なのがカリフォルニアの空です。

サンフランシスコでの最初の連句計画は植物園行きでした。車がゴールデンブリッジパークにはいると、左右が森です。それも幹の太い大樹ばかり。「樹齢三百年くらい?」と誰かがいうと運転している近藤蕉肝さんが「そんなにたっていませんよ。日本のように冬が無いから成長が速いんです」
 そういえば松がまるで曲がらずやたらに枝をのばして大木になっている。加えて木の成長はカリフォルニアの他の地域より多少有利だそうな。夕方から朝まで霧が出るからー。あ、"霧のサンフランシスコ"でした!
植物園ではハイク詩人が案内をしてくれることになっていました。彼らは「Haiku Poet」と自己紹介をします。
 おおそれで私たちは「Renku Poetですね」と蕉肝さん。日本では俳人という言葉はポピュラーだけれど連句人といういいかたはまだあまり通用していません。英語だと素直にrenku poetということになります。いいなあ。この日は二、三人かしらと思っていたら、門のそばに集まったのは十数人も。皆さん各のハイク協会に属していて、翌々日から続く講演会、連句実作会にも参加するお仲間だそうです。リーダーは植物の専門家というエバさん。
 その説明を近藤蕉肝さんが通訳しながら日米混成でぞろぞろと散歩します。
 カリフォルニアの州花は? カリフォルニアンポッピー。あのオレンジ色の花菱草です。私の大好きな花。
 おや大きな月見草。evening primroseっていうんですね。隣で見ていた大きな男性に「日本では月を見る花という名」と教えてあげます。
 すると
「この花はここでは昼もよく咲いている」
と。霧で暗い日が多いんですね。まあ、こんな会話をして連句会の前に顔合わせをさせておこうというのが主催者の意図なのです。
実際、目の前の木とか花とかについて話すのは、テーマも限定されているし、わかり易いですよね。
 それにしても日本庭園にアヤメや藤が咲いていて、クラブアップルという小さいりんごの木は赤い実が鈴成りで、ポッピーも咲いて、日本の春の終りと秋の初めが同居している感じです。
 広場に出ると、ジョージくんとアンナちゃんが走りだしました。六年生と四年生の兄妹は、近藤蕉肝・クリスさんさんのお子さん。この一ケ月、会合となれば隅の席で本を読み、おとなたちの会合に辛抱強くつきあい、文化交流にリーダーシップをとっている親たちのいっしょうけんめいな姿を見て、とてもいい経験をしています。
 彼らの走ってゆく方には池があって、岸にあがってきたアヒルたちに餌を投げてやっています。
「ねえ、藍さん」とアンナちゃんがいいました。「あの黒い鳥、ズーズーしいよ。アヒルの餌横どりする」
群れのところどころにいる スズメよりちょっと大きめくらい。カラスの濡れ羽色みたいに艶々とまっ黒なその小鳥は、チョコマカとはしっこくパン屑をついばんでいます。
「ねえ、なんて鳥?」日本にはいませんから、近くにいた人にきいてみました。「あの黒い鳥(ブラックバード)は、なんて名ですか?」
答え。「ブラックバードです」なーるほど。

   *       *

nekonba.JPG ところでこの連載はなぜ「猫んば」なのかと不思議に思ってる方がありそうなので注釈を。
「猫んば」って名を付けたのはアンナちゃんです。これは旅の最後のニューヨークでのことなんですが、それまでアンナちゃんが私の齢をきくと、「三百六十七歳」だとか、適当なこと言ってたんです。
「なんで、そんなに年とるのよっ」っていうから「私は実は山んばなんだあ」って教えてやったら、「藍さんなら山んばじゃなく猫んばだあ」といわれて、すっかりその命名が気に入ってしまったというわけ。
 もちろん彼女はこの旅で、私が猫好きで猫の絵をよく書くのを知ってるからなんですけど、猫んばなんてなかなか冴えてる単語でしょう?

サンフランシスコの怪しい東洋人たち!

 サンフランシスコは八月でも寒かったんですよ。
 私はそれでなくても小さめの鞄の中に、連句資料やこの夏読まねばならない本を詰めてきていて、服がはいりません。こちらで買うつもりが、時間がなく、ようやく七日めにシスコで買い物に連れて行ってもらいました。
 カーメルでホランドさんが着ていたフードつきのジャージがほしくて、男ものの売場に行きました。あった! 黒くてフードの裏が緑で、着るとたっぷり膝のすぐ上まであり暖かです。ところがレジに持っていったら、中年のおじさま店員が「誰が着るのか」と聞きます。
「私」といったら「ノー」というんです。これは男物だし、すごく大きい。3Lより大きい。「わかってる」というと目を丸くして「あなたは恋人と二人でこれを着るのかー」なんて。
困ったなあ。自分の趣味なんだと納得させる語学力は私にはないし。近藤蕉肝さんがきてくれた。助けてえ。蕉肝さんも押し問答してからようやく売ってくれました。でも、蕉肝さんにも「彼女の恋人はスモーとりなんじゃないか」といったんですって。彼は昔日本にしばらくいたことがあってスパイと疑われ、憲兵にあとをつけられたことがあるそうな。
無知な日本の女が変なものを買っては気の毒だと親切で売ってくれなかったんですね。
 でもこの服みんなに(魔女みたいで)似合うといわれましたよ。ヒヒヒ。syopping.JPGサンフランシスコでは観光もしました。ゴールデンブリッジくらい見ないとね。
魔女服のおかげで寒い川風も平気でしたし。
私は橋より川のまん中にある、例のアルカポネもはいっていたという監獄島が興味がありました。脱走できない島です。でも、こちらの岸から見ると青い水面がきれいで、閉じこめられてもいい景色だろうなという感じです。監獄の建物が朽ちかけたままで、遊覧船の客が見物しています。 あとで「アルカトラ」というこの島についての歴史の本を買いましたが、どこにもカポネのことは触れてなく、インデイアンの民族闘争の拠点となったことがぎっしり書いてありました。アメリカではちょっと過去をめくると悲惨なインデイアンの歴史がのぞくのです。
ところでこのあと私たちは日本観光客が蟹や海老を食べにゆくフィッシャーマンズウーフへ向かうのですが、おかしなことになりました。私たちはカーメル以来二台のマイクロバスを借りて移動しています。赤い車を運転するのがマーシャルさん。映像関係のフリーのデイレクターですが、ハイク協会の会員でもあり、カーメルからずっと運転手さんをしているのです。こういう友人をたくさんアメリカにもっている蕉肝さんクリスさん夫婦を私は尊敬してしまいます。
ところで私たちは白い車でした。ゴールデンブリッジの展望台の駐車場から赤い車のあとをついて出発しました サンフランシスコの街中を海に向かうのですが童話に出てくれようなきれいなお家が並んでいます。白や、ピンクや薄い緑や、クリーム。きれいな色にぬった壁にカラフルな屋根。アクセントは窓枠の色なんですよ。
 ずいぶん来たときに運転する蕉肝さんが、少し道が違うみたいだなあとつぶやきます。助手席には福田真空さんがいて地図を見ていますが、ややふにおちないよう。
「マーシャルが自分の家にでも寄るのかな」
と蕉肝さん。「まあ彼のほうが正しいからついていきましょう」
でも、ここの道は混雑しているので、すぐ後にぴったりついてゆくのはたいへんのようです。ずいぶんきたところで前の車が急に横道に入りました。
 まったくの住宅街。その二軒目の家の駐車場にはいります。赤いゼラニュームが飾ってある白い壁の家。「あ、やっぱり誰かの家に寄るんだな」と蕉肝さんがつぶやいて赤い車の横に車を並べて停めたときです。赤い車はすごい勢いでUターンし、さっともとの道に戻ってゆきます。「ええっ」そのとき運転手さんの顔が見えました。「わっ」いっせいに叫んでしまいました。
マーシャルさんじゃないんです! 目が点になるってこういうことでしょうか。
 どこかで間違えて、別の赤い車をおいかけていたんです。赤い車の人たちはどこかでそれに気がついたんですね 後を付けられている! たぶんスピードを出してまこうとしたりもしたんでしょうけれど、蕉肝さんはまた必死で付いていきますからね。蕉肝さんってちょっとジャッキーチェン みたいなんですよ。助手席の真空さんはいかにも国文学の学者らしいまじめな風貌だけれど筋肉マン、付けられていると思うほうには、怪しい東洋人たちに見えたかもしれません。 そう。アメリカは銃を持てる国でした。突然停車させられて銃をつきつけてくるかもしれません。日本人だってヤクザとか、日本赤軍とかこわいイメージもある。横道にはいってもなおぴたりと追ってきて横付けされたときにはゾッとしたでしょうね。
 私たちは呆然とした後そんなことを言い合って、涙が出るほど笑ってしまいました。
 蕉肝さんと真空さんが地図をたどり私たちは改めてフィッシャーマンズウーフに向かいますが、そのころ怪しい東洋人の車から逃れた赤い車の人たちは何を思っていたのでしょうね。

あ、サンフランシスコの連句会も講演会も大盛況でしたよ。徳富「有季定型俳句の会」

tokutomi.JPG kagerou.jpg

西部劇の赤土の荒野で芭蕉に逢う!

 デンバー経由でアメリカの中部山岳地帯へ飛んだのは八月十一日のことです。
ロッキー山脈を越えてから雲の切れめに見える機下の風景は、緑の日本列島を見馴れた目には異様でした。 うねる稜線を見せる赤肌の山々に、ところどころ黒い樹々の茂みらしいものがあるだけ。そう、ちょうど黒いたてがみの栗毛の馬がびっしりと、どこまでも並んでいるのを上から見おろしているような。

おや、赤い花が一面に咲いている斜面があるーー。
「花じゃないですよ。あれも土砂ですよ」と隣席の真空さん。真空さんは一昨年に近藤蕉肝さんと、このアメリカ連句行の予備調査的な旅をしています。messa.JPGアルバカーキー空港にはビル・ヒギンソンさんとペニー・ハーターさん夫婦が迎えに来てくれました。お二人とも元アメリカ俳句協会の会長さんをしたことがあり、日本にも来て、真空さんの主催する落合祭にも出席されたとか。
今から向かうサンタフェは、日本ではリエちゃんの写真集が撮られた場所として急に知られていますね。
 真空さんと私はビルさん運転の車に乗りました。出たとたんの道に赤い高い土壁。えっまるで築地塀そっくり。
 やがてあたりは赤土の原。道と平行している川べりだけに森があり町も住宅もあるのですが、あとは荒涼とした平原です。助手席のペニーさんが遠い山を指し、「あれがサンデイア山」
ゆっくりした英語で説明してくれます。平原にも山にも点々とある黒い茂みは小さい松の仲間のピニョンだとか。
 標高が高いので気温は八月の気温の最高が二十七度、最低が十三度。冬は零下七度にもなる。その上毎月の雨量が六センチもないというのでは、生きる植物が少ないはずです。
 ゆくての地平線の空がかき曇ってきました。夏の雨量は毎日あるわずかな夕立で保たれているのだそうです。あっ、たてに稲妻が。

  天と地を直下につなぐ稲光り 藍

しかし、稲妻、稲光りという言葉がつくづく迫力不足。稲なんてできるはずのない土地なんですから。

 来る前からこのサンタフェがアメリカ連句の重要な拠点だと蕉肝さんから説明を聞いていた私は、この風景にびっくりしていました。あまりにも日本と違う。違いすぎるんですもの。
 それまでいたカリフォルニアどころではありません。広大な荒野の中、赤土のアドベ建築の続く町はアメリカの中でも変わった風景です。しかも、そもそもこの町は、東からやってきたスペイン人が合衆国の旗を初めて挙げた所。連邦政府の最初の建物があるのです。
ということはアメリカインデイアンにとっては激戦の土地。そうです。こここそ西部劇映画の舞台なのです。
 レッドリバーーそれは赤土の大地を時に襲う嵐で水を増す泥の川。西へ西へとインデイアンを追いつめる幌馬車や騎兵隊は、このピニョンの繁みを縫って行ったのでした。えっ、ここで、連句!?
 しかし、連日の連句会は充実していました。実作会にも多くの詩人が集まり、ハイク、レンクについての実に刺激的な議論もあります。
 ビルさんッペギーさんは来日以来すでに蕉肝さんや真空さんを通じて連句の式目まで勉強しており、ここの詩人たちは芭蕉の付け合い、転じについて研究し、私たちが訪れるまでに数回も、連句実作の会合を開いていたのです。 やはりここは連句の拠点でした。そこに連句する人がいれば、どこだって連句の拠点になるのですよね。
 討論会では芭蕉パフォーマンスもありました。演劇人のトマス・フィッツモンさんが「バショーンのブロードロード」のひとり芝居をされたのです。 ブロードロード? 訳すと芭蕉の広道ーー。奥の細道のもじりです。本当の舞台では一時間以上かかるので、その日はサワリの十五分だけでしたが、ここで出会った目の青く背の高い芭蕉は、やはりまぎれもなく芭蕉でしたよ。
劇中では「清滝や波に散りこむ青松葉」ーの句が詠まれました。
 芭蕉の最後の句は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」といわれているのですけれど、実はその句を詠んだもっと後に、芭蕉はこの「清滝」の句の推敲をしています。だから、死を迎えた芭蕉は、むしろこの句の持つ清らかな境地にあっただったろうというのが、同行の真空さんーー国文学者の福田真久先生の理論です。フィッツモンさんはそれを知っていたのかもしれません。
 私は前から芭蕉の枯野の句が、悲壮感が出すぎてあまりぴんときませんでした。もし清滝の句でその死が終わるなら、たぶん夏の嵐でもあって散りこんだ青い松葉の香りもすがすがしく、ほっとするような気がします。

 ビルさんは観客である一般の人に遊びとしての連句入門の会もしました。二十数人が全員575の発句を作り、お隣にまわし付け句してゆくのです。こんなことは日本でもしてみていいことですね。
アメリカの連句熱はハンパじゃないのです。そうそう。私たちはビルさんから野球帽ふうな帽子をいただいています。
 国際連句協会の(AIR)の帽子。実はカーメルではリキータさんにAIRのマーク入りの青いTシャツをプレゼントされていたのです。私たちチームはは青いシャツと帽子で連句してるんです。

  サンタフェの空より青い夏帽子 藍

 もちろんお礼の挨拶句です。

higinson.JPG rbadner.JPG

くたびれてひとり留守番のサンタフェ


peggie.jpg サンタフェの空より青い夏帽子  藍
Santa Fe /buruer the sky /summer hat
    コーンダンスに大地轟く   栗子
earth vibrates/corn dance

 栗子ことクリス会長が付けてくれた句のコーンダンスはバッファローダンスとともにインディアンの伝統ダンスです。コーンもバッファローもインディアンの生活を支えるものですね。
 私たちの旅の日程がこの珍しいダンスの見られるプエプロのインディアン村のお祭り期間にあたっているのはとても幸運なことだそうでした。
 でも、残念。私だけはそのお祭りの日は宿で待っていました。
 外国旅行は疲れるものですが、今度はまた一ケ月の長旅です。あまり健康に自信のない私は、クリスさんと蕉肝さんに、「ときどき皆さんがおでかけのときに留守番をします」と、出発前から予告をしてあります。実のところ日本を出る直前まで仕事と、留守中の家の手配でエネルギーを使い果たし、アメリカについたらとにかく一休みしたいと思っていたのです。でも、連句行事も、パーテイーも充実していて目がさめるようなことばかり。あっという間に一週間たってしまい、やはりとてもくたびれているのでした。気ははっていますけれど、もともとドジな私はこういうとき落とし物をしたり、何かにぶつかったり、ころんだり、時間や場所をまちがえたりします。もう休まなくっちゃーーというので、サンフランシスコでも一日、そしてサンタフェでも、かなりの観光を休むことにしたのでした。
 もっとも、私は体力、能力にあわせいつも自分にとって最も大事な部分だけを選んで生きてきています。
今度の旅で大事なのは、連句という日本の文学型式が果たして外国語で可能か、どう受けいれられるのかという興味でした。それがもし私にとって刺激的な問題になるのなら、帰国してから新聞の文化欄に書く仕事にもなるはずです。 すでに季語の問題や外国語混合の座の可能性など、カーメル、サンフランシスコから私がもち始めた問題意識はこのサンタフェでの連日の連句行事で明快に方向が見えてきつつありました でもそれらを書きとめたノートもそろそろ整理しなくてはいけません。ひとりで考える時間も必要です。
 私は朝、出かけるみんなといっしょにサンドイッチを作り、それをもって部屋に戻ります。
 荷物の整理をしてからひと眠り。お弁当を食べてから洗濯に行きます。
全自動洗濯機の英語のチンプンカンプンと闘ってから部屋の内外に干します。空気が薄くて日差しが強いので、どんどん乾きます。外のベランダの椅子に座り、丸テーブルにノートを広げます。ノートを風がめくります。
belanda.JPG この建物は例のアドベ建築ですから赤土塗りの壁に、晴れた青空。芝庭にはピンクのバラが盛り。
 ぼんやりしているうちに、建物の影がすこしうつりました。伸びをして立ち上がり、ちょっとお散歩。芝はどこもよく刈りこんであります。
 赤い建物はぐるりとまわっても人気がなく、空が青く、風がかろやか。 おや。
クラブアップルの木が鈴成りです。この赤い小さいりんごは、日本の姫りんごと違ってかじると甘いんです。木の下にも一面に落ちています。 ぽとぽとと、また落ちて。
 ひとり。
 ひとりもいいですね。

 とはいえ、ひとりの時間がいつもこんな静かな時間というわけではありません。
日本へ電話したり、ファックスをいれたりもせねばなりません。
 中日新聞のコラムでは読者にアメリカ連句旅行の報告中でした。
(カーメルでは連日行事で帰りがおそくなるので、パーテイーのさなかに原稿を書く場所を探し、あせってうろうろとしていたりもしました)単行本も進行中。朝日新聞の学芸部にも、原稿の内容や量について報告せねばなりません。私にとってこの旅は休暇ではないのです。
 電話やファックスも、くる前に思ったほど簡単に使えるわけでもありません。電話では時差を考えねばなりませんし、あちこちの移動先はいつも私が知らない場所です。サンフランシスコではホテルでしたから、ダイヤル直通で部屋から日本へ電話ができました。日本から部屋へも直接かかったのですファックスはカウンターで頼んでから奥の事務室に持っていきます。これがけっこうビジー(回線がいっぱいということらしい)で時間がかかります。ここサンタフェの宿はキリスト教関係の宿泊所で、部屋に電話がありません。廊下にある公衆電話からかけるのです。二十セントいれて交換手を呼びコレクトコールを申し込みます。これがスムーズにできるようになるまで、だいぶ二十セント硬貨を機械にとられました。ファックスは事務室があいている朝九時から五時までに頼みます。観光と行事の帰りはたいてい夕食も外になるので、それらの合間にすばやく連絡を片付けるには私は語学力も足りず、土地に馴れてもいないのです。
 みんながそろそろ帰る夕方に私はひと休みしたベッドの中で目をさましました。胸には未整理のノートがのっていました。日本にいる夫や子どもたちがこういう私を見たら、
「また、またやってる。しょうがないなあ」と笑うだろうなと思います。
 やっぱりちょっと里心のついた旅のなかば。あ、雨の音です。

旅はいろいろみるウオーキー

woodland.JPG ann.JPG

 日本からカーメルに着いた晩、モントレー杉の梢に三日月を見ました。でも、サンタフェではもう満月です。 旅もいつかなかばの十六日に、ミルウオーキに移動しました。
 ここのホテルではね、なぜかファックスは受信のみで送信をしてくれません。ええっ。どうしてなの?
 でもね異国では深く考えないほうがいいのです。とにかく順応しなくっちゃ。
 ファックスショップへの片道三十分もまたよし。古い教会がたくさん。ゴシック・ロマネスク・ギリシャ風とさまざまな塔が天をさしています。百年前の移民の町は、日本の明治大正時代の洋館ばかりです。もちろん当時から今まで住み続けているのです。
 このミルウオーキーを、日本の旅行ガイドブックは「ビール工場があるほかは見るところがない」と五行だけ。
私たちのツアーの中でも観光派は、シカゴまで足を伸ばしているようです。でも、私はここでいいんです。この町の大通りのクラシックな家々は芝を刈り、白い窓にはゼラニウムの鉢が水をしたたらせ、花壇も整っています。まるで絵のようにね。でも、裏の小道にまわると赤まんまや露草や、日本と同じ雑草がはえてるんですよ。
 それから、ブラデイー通りにまがると、おや、ここは大通りの舗道も雑草だらけ。お店はガラスが割れていたりちょっとこわいようなお兄いさんがたむろしていたり、ウインドもけばけばしい色ネオンで飾られています。
 私は実をいうと少しこわいので、大またで早足で歩きます。すれちがう人種は雑多です。ジーンズ姿の私も観光客には見えないつもりーー。

allis.JPG この町でもファックスがビジーでなかなかはいりません、時間待ちのある日、プロスペクト通りにあるはずの美術館に行こうとして、ミシガン湖畔に出てしまいました。波がなく、青空のような水面をしばらくながめてーー。
 そうだ。迷いついでに銀行で両替をして、郵便局で切手を買おうっと。それからレストランでひとりでお昼を食べてみようかな。高級レストランでも騒がしいヤング向きでもなく、ごく普通のお店を見付けました。よかった。 中では近所住まいらしいおじさんが新聞を読んでいたり、原色の似合う黒人の女友だちがふたり、いっしょうけんめい話しこんでいたり。
 チキンサンドイッチを注文しましたがポテトフライはノー。いつもすごく量が多いから。スープを飲んでから、ここまできた地図をチェックします。 まあ、帰れそうなのでひと安心。帰りは誰もチップを置いていかないみたいだったけれど、ここまでの旅の習慣に従って置いて、そのかわり道をきいてみようっと!
 この後たくさんの人に道をきいてたどりついたチャールスアリス美術館はアリスさんという貴族の住んでいたチューダースタイルの邸宅です。周囲の町並みの家と大きさは変わりませんが中がすごい。
金銀細工のある天井、絹やレザー張りの壁。ベッドカバーの豪華なレース編み。アンテイークの家具がそのままの部屋に開拓時代の農場風景の絵がしっくりとかかっています。オリエントからヨーロッパルネッサンスまで収集品もたくさん。百年前のアリスさん夫婦のことを思いつつ、大理石の階段をのぼると、二階の部屋ではガリーピサレックさんという現代画家の個展をしていました。
澄んだ色が華やかで抽象性の高い絵に囲まれて、しばらく座っていました。私の旅はこういう旅なんです。帰りに受け付けの人に「スチューデンツ?」と聞かれ、にっこり。ハハハハ。ま、そんなもんです。たぶん私は死ぬまでーーね。

 こんなふうにほっつき歩いてもいますけれど、基本的には連句の会合にもいっしょうけんめい出ています。
 ここの会場はウッドランドパターンという芸術関係の本を揃えた本屋さん お店の奥にちょっとしたイベント会場があり、ちょうど、生命の誕生ーーの絵の個展中でした。子宮の絵に守られつつ、私たちは連句の実作やリーディング、討論会などもしたのです。
地域文化振興の拠点であるウッドランドパターンの経営者はカールさんアンさん夫妻。アンさんはね、金髪を三つ編みにおさげにした優しい目の方ですよ。催し事が終わった後で参加者が別れ難くなるようにするのが願いだとか。そう、いつでも文化は人と人とのつながりによって成るのですものね。
私たちはアンさんのお家にもお邪魔しました。リスやビーバーの彫刻・身をよじって悲しそうな人形など、アンさんの作品もいっぱいでした。作品とお客でぎっしりになった居間でさっそく歌仙が巻かれます。に可愛いビーバーが自転車に乗っていたので「アンに捧げるビーバーの巻、

ビーバーも自転車飛行昼の月      藍
the beaver also/flies on a bicycle/day time moon

秋の句ですというとみんなで、ここの秋はーーとしゃべり始める。いくつか出てきた中で

the Swallows are beginning/their distant migration Bob Spiess
燕はるかに帰り始める

18句(半歌仙)巻くきあげると世が更けました。それにしてもたっぷりしたスープに七面鳥がおいしかった。
この旅ではホームパーテイーにたくさん出ていますが台所はどの家もマイペースだというのが私の印象です。日本の雑誌のグラビアに出ているシステムキッチン、オーブン料理だけしかしないキッチンのパーテイーももちろんありましたけれど、それは若い夫婦でした。このアンさんの台所で大きなお鍋を洗うのを手伝いました。
 手の届くところに細かいスパイスの棚があって、ふきんの入れ場所、古い食器の棚も、道具の便利な配置はアンさん流儀の台所でした。私の使いこなしている台所の考え方と、よく似ていると思いました。。私とアンさんと年齢が近いからかな?
いずれにせよ、アメリカ的であるという以上に、それぞれの人も台所もそれぞれ。人間は人種・文化の違いをこえて、それぞれなのですよね。

*           *

数日いたミルウオーキーでは連日連句のセッションでした。ちらりと見たお隣の座の時事句。

12 八月の三日月嘘を隠す顔 Jane      
13 イラク空爆神は何処に Penelope
14ダライ・ラマ 微笑み帰郷ままならずDanny]
at Woodland Pattern,Milwaukee AUgust20/1992; 1:20-9:10pm Fresh Coolness]byShinku;tr by Shokan

文芸の夢の世界に浮かんでいる私たちですが、この国の人たちのイラク空爆についての思いが出てきてはっとしました。セッションの最終日にはこの値での連句作品の朗読発表をかねて一般の人たちもまじえて懇談会がもたれました。実際に連句を巻いた人たちの感想はどうだったか。「詩なのに助けてもらったりして同胞意識がわいた。自分の詩がとられなくても、全体の詩ができあがるのがおもしろい。信じられないタイプの詩」(ダニー)「関係の行火でできてくる詩なので。ひとつひとつの句に名前が書いてあるが、これはグループの詩なのではないか」(男)Janeさんが「これはティッシュボックスポエットじゃないですか」といいます。「箱の中かいろいろ出てくる。いくらでも出てくる」ティッシュの箱からひっぱりだす身振りをして「でもひとつひとつ全体の中の一部で、つながっているゲシュタルト心理学のよう」黒ベレーの男性「個人主義の国だから、こういうものを運んでくるのは意味がある」女「日本語と英語と口語に読むとリズムがおかしいと思う。日本語は日本語だけの詩を聴いてみたい」というのは1句ごとに訳をつけているからですね。「同じテーブル、同じ場所で詩を作る。孤独ではない」サンドラ「精神科の医師として非常に感銘を受けた。周囲の人とともに作品作りをする、善悪を越えたバランスを感じる」女「歌仙に産科して、宇宙の波に運ばれてゆくような気がした」けっこう厳しい質問はなぜ日本でもまだ連句は少ないのですか」
蕉肝さんが<途中で切れているぽい>

アン王女と十二歳のアンと

carl.JPG「この白い花の名〝アン王女のレース〟よ」
とクリスさんが教えてくれました。ミルウォーキーから車で南下してゆく道のはたは、ほんとうにまっ白なレースを敷きつめていました。
野生にんじんの花の群落なのですけれど、それを〝アン王女のレース〟と名付けたのは誰でしょう。
きっと昔、イングランドからこの新しい大陸に移民してきた人たちなのでしょうね。

アン王女のレースゆかしき秋の旅   藍
nostalgic/Queen Anne s
lace/autumn journey

ゆかしき__って、花の名の由来が〝知りたい〟という意味を含んでいるんですよ。その白いレースをふちどるように紫のキク科の花も帯のように続いています。風は軽く青空。そしてあたり一面はただひろびろとコーン畑です。子供の背丈くらいですが穂が出ています。この国ではインディアンの時代からコーンは重要な穀物です。ちょっと面白いことに、昔のインディアンコーンは赤や紫なんですね。
日本の米が昔、赤米、黒米、紫米だったのと共通しています。たまに農協の建物が見えますが、ほとんど人影は見えません。やがて教会のある町をぬけ、コーン畑をとおり、また畑をぬけ__私たちはケノーシャへ向かっています。
「あれ、日本の旗じゃない?」
ジョージくんが叫びました。ほんとどうして畑日の丸があるのかしら。近づいたら白地に苺の絵でした。苺畑の目印!なーんだ。

この日近藤一家と真空さんと私はケノーシャのカールさんを訪ねたのでした。カールさんは詩人で、ミルウォーキーでの集会の手配を何か月も前からしてくれた方です。そして彼はクリスさんの仲よしのいとこでもあります。森の多いケノーシャの静かな住宅街のその白い家も、木に囲まれ、緑に染まりそうでした。
「私、この叔父さんの家に子どものころよく来てカールと遊んだよ」クリスさんが急におしゃべりになります。
「このメープル(楓)は、カールが四歳のとき植えた木よ」
もちろん裏庭のその木は今、二階の窓まで大きな葉を繁らせているのです。
「この車庫で本を読んだわ」車庫には本棚があります。「昔はもっといっぱい本があった」。
叔父さんは英語の先生で、叔母さんは麻酔科の看護婦さんだったとか。その叔父さんが大事に作っている家庭菜園には、キューリ、ナス、トマト、ブロッコリーがなっていて、白やピンクの立葵が花ざかりです。
「懐しい!」
クリスさんの青い目が少女時代を映して輝いています。おや、ひまわりのガクだけが残り実がからっぽ。
「ひまわりはリスのために作るの」

squirrel guards/sunflower seed head/ backyard picnic

向日葵の種守る栗鼠やピクニック   クリス

oisii.JPGこの日、カールさんのへやで巻かれた半歌仙の発句です。本と資料に囲まれた長椅子にぎゅうぎゅう座り、(カールさんの占めるスペースが多いのですけど__)顔つき合わせての午後は、叔母さんがお昼に煮て下さったおいしい豆のせいもあって、うっとりと幸せでした。クリスさん、蕉肝さん、カールさんが英語で話に夢中になると、私と真空さんはのんびりその声をきいています。私の頭のところの水槽で金魚がひらひらと尾をひるがえしているのが色っぽい。話がとぎれるとモーターの音。そうそう脇句はカールさんです。

grandmother's sanpler/watches the poets

祖母の刺繍が詩人見下ろす   カール
Sunflower Seed ( )Kenosha, Wisconsin
August 19 1992: 2:40-6:00pm

ドアの上に「Herren Forser」という刺繍字が額にいれてかかっていたのです。カールさんの祖母アンさんが十二歳のときに作ったものとか。「祖母はそのとき両親につれられスウェーデンから渡ってきた。やがて母が亡くなりこの刺繍を作りはじめたとき、父が亡くなったーー」
ほんとうはまわりに花などのステッチをするのだけれど、結局できず文字だけ完成させたのでした。文字の意味は「主のめぐみ」。十二歳の少女アンはどうしてもこの文字を途中でやめることはできなかったのでしょうね。祈りをこめた一針一針がいま百年後、私たちを見おろしています。〝詩人〟__って私たちのことですよ。日本では詩人・俳句人・連句人と区別しますけれど英語ではどれもpoetです。
恋句では私の「こりもせず連れこみ宿でなめる傷」が問題になりました。〝連れこみ宿〟__ラブホテルは英語にはない単語なのだそうです。
「アメリカでは自分の部屋をもっているから。そういう宿は必要ない」とカールさん。住宅事情の違いなのですね。
「十代なら車を使うけれど」
一九五〇年代からアメリカの車はそれで大きいんですって。「車はそのころセックスシンボルで売った。バックシートを倒し車全体がベッドになる。フロントはとがって男性イメージ。ラジエータの穴は女性」さ、さいでしたか。
蕉肝さんがアステカ聖球ゲームの句を出してきたときはカールさんがアステカの金星暦を見せてくれました。
スペイン人がこの国に上陸してほろぼした黄金の国アステカの古代文化は西欧を祖とする人々の心に、歴史の傷みと深い憧れを抱かせているように私は感じたのでした。
充実した会話の合間に金魚はくり返しひれをひらめかせ、やがて窓がたそがれました。帰りの車の外のアン王女のレースも闇にほのかな白でしたっけ。

ミシガン湖を狸に乗って渡る

anqween.JPG連日、連句セッションのあったミルウォーキーを出たのは八月二十三日。
 一ヵ月の連句旅程はもうニューヨークを残すだけですが、ここでちょっと寄り道があります。これrまで滞在中ずっとコバルト色の水面と遠い白帆を眺めていたミシガン湖をフェリーで渡るのです。
対岸のミシガン州にはクリスさんの御両親が住んでいます。孫のジョージくんやアンナちゃんの訪れを首を長くして待っていらっしゃるでしょう。マニトワックの港は霧が流れていました。五百人乗り百二十台の車を乗せるフェリーはオールドタイプを復元して煙突から煙を出す汽船です。
ちょうど私たちの車が停まった道路わきにはもう使っていない鉄道のレールが行き止まりになっていて、小ちゃな黄色い花が一面に咲いていました。霧の絶えまにこれも操業してないという鉄工場の建物が見えました。ちょっと昔のアメリカへ戻ったような。
寒い!みんなコートを着こんでフェリーにのりこみます。甲板の椅子に座って船出を待っていると、かもめがたくさん寄ってきます。
ところでこの船の名、バジャー号です。え、狸に乗って湖を渡るわけ?
ジョージくんとアンナちゃんは船の客室やら看板やらあちこち探検して私のいる甲板にもやってきました。
おや、船はいつのまにか岸を離れたようです。
「ネエ、こういう船、ボーッていって出てほしいね」とアンナちゃん。carferry.JPG「そうよねえ、迫力ないよね」
いったとたん、私たちのすぐ頭の上で「ボガーー!」ものすごい汽笛の轟音。どうも狸にきこえたらしい。
狸号の航海は正味四時間。ここで時差がはいるのでまた混乱してしまいます。
「湖の眺めはすばらしい!」昨晩ウッドランドパターンのカールさんが力をこめていってらしたのだけれど、霧はますます深くやがて何も見えなくなり風が霧をふきつけて、ふるえあがった私たちは船室にはいりました。
六ドル五十セントのバイキングを食べて一休み。テーブルで絵葉書など書きます。

対岸のラディントンの港で近藤ファミリーの再会ドラマに胸を熱くした私たちは、御両親の車を追って南下しペントウォーターという保養地に着きました。
今度はお庭のあるしゃれた別荘を七人で借り切りです。階下は居間と食堂と、管理人さん一家のへや。二階に大小四つのベッドルームと二つのバスルーム。
壁の絵や棚の装飾品、家具、みんな凝った一九二〇年代のアンティークが塵ひとつなく磨かれています。
私は神戸の清水桃子ちゃん__(英文科の大学生です)と同室。
花柄の壁紙のおへやには大きなダブルベッドと小さなカウチ。どちらもまっ白なレースがかけてあり、枕カバーも絹のフリルつき。ぬいぐるみが四つずつ枕のところにおいてある。童話の本や時計、小さなたくさんの人形、置き物。
「これは桃子ちゃん、姫と乳母のへやらしいから、私はカウチで乳母になるわね」
__と横になったカウチの頭のところは窓になっていて、これもフリルのカーテンのすぐ外にくすの木が緑の葉を繁らせています。
こういう宿はパンフレットを見ると「ベッドアンドブレックファスト」となっています。夕食は外のレストランに食べに行くのです。一人40ドルから65ドル?この日のグループ借り切りは二百ドルだそうな。
ぐっすり眠った翌朝六時すぎに目をさましました。窓のカーテンが青白く明けかかっています。やがてゴトゴトとあちこちのへやで音がしだして、三十分後には全員階下のまだうす暗い食堂のテーブルを囲んでいました。
香料の強い黒いソーセージのスライスをかじっていると、フレンチトーストの厚くて熱いのがつぎつぎに運ばれます。蜜をたらして食べます。ジュースはオレンジ。大きなカップのアメリカンコーヒー。メロン。
大邸宅ではないけれど召使を何人か使っての上流の暮しを味わう一泊でした。でも、ここでちょっと思いました。
こんな、ちょうどアンアンとかマダムとか女性雑誌にでてくるお家を、日本の主婦たちもずいぶん夢に描き、それに近づこうとしたのではないかと。
でも本当はそれはひとりのハウスキーパーの手には余る仕事なのですよね。庶民が中級意識をもち、夢にみた生活はやはり上流階級の暮しで、その暮しを実現するために、人を雇えぬ主婦はその分を自分が働いている__というところがありますね。バブルも消えたしそろそろ背のびをやめて、自分たちの暮しをする時代にならなくてはね。

緑の屋根の白い館を出ると車はグランドラピッド空港へ向かいます。
まだほかに車の影のない道を五分ほど行ってから、先を走っていたクリスさんのご両親の車が右の道へ別れました。連句にささげた近藤一家の里帰りはたったの一泊二日だったわけです。車は山ごえをして霧の中に入ってゆきます。あたりの背の低い潅木のようすなども箱根をこえる道に似ています。
そう言ったら「このへん夏は雹が降るよ」とクリスさんがいいました。「冬は吹雪」とても厳しい気候なのです。
少し下り坂になって霧が晴れてくると木々の下草が朝の光に白々と浮かび上がりました。あ、またアン王女のレースなのでした。

ねずみと芸術家の住む街ソーホ

subway.JPG八月二十四日。ニューヨーク入り。これまで涼しい保養地ばかりの旅がはじめて〝東京なみ〟という湿気と暑さに襲われます。広々とした空、平原を渡る風ともお別れ。ジョンFケネディー空港から乗った車はぎっしりと建物のつまった街へのりこんで行きます。
車はしだいに混み、やがて人と車の行き交う前方をかきわけてゆくがごとく__。クラクションがあちこちで鳴ります。道ぞいの商店はモノであふれ、看板文字はアルファベットと漢字で躍っています。
たいていの車が窓を開け、運転手さんが肘をつきだしているのは、冷房がないんですね。あ、タクシーもだわ。
むんむん生活の臭いのするチャイナタウンをぬけてソーホー地区の横道に入ると、赤ペンキのはげた煉瓦の壁になぐり書かれた落書きが目の前に。
「まさか__。このへんに泊まるんじゃないでしょうね」心ぼそそうな声が後ろの席できこえましたが、それを無視するがごとく、車は落書きビルのまん前に停まったのでした。
駐車中の大型トラックの間をすりぬけて向い側の黒ずんだビルの入り口へ。オフソーホスーツホテルと書いた派手な日よけ。やはりホテルなんです。ドアをはいると右がカウンターで、前の通路は人ひとりがトランクをもって立つだけの細さです。カウンターには屈強のおじさんが二人。防犯テレビもあります。小さいながら壁には時計が四つ。パリ、東京、ロンドンの時刻表示が。聞いてみると、ファックスも電話も24時間受付けてくれるとか。私はこれが一番うれしい。
さっそく日本へ電話したりファックスをいれたりいくつか用事を片付け、ついでにミルウォーキーのファクスセンターに預けてきた矢作新報行原稿が未着なのを知り、ここから再送しました。(ミルウォーキーからはこの三日後に日本へ届いています。〝ラインがビジー〟という程度は地域によって違うのかもしれません。)
ところで私の部屋は二階です。またバスキチンつき。長期滞在用のアパートメントホテルです。
窓は道路側に面していて、まん前のビルは倉庫のよう。そう。ソーホーはハドソン川が物流交易で栄えたころの巨大な倉庫の街だったのです。
「そのころねずみしか住まない街だったといわれました」と、これは近藤蕉肝さんの解説。「でも、今はこのあたりのアパートに世界から芸術家たちが集まっているんですよ。いつかマンハッタンの中央に事務所をもち、ビバリーヒルズに邸宅を構える夢を描いてね。実際に、一夜明けてそれを実現する人が存在するのがこの街なんですから」
アメリカの映画、演劇で私たちが、しばしば出合うサクセスストーリーが生きてる所なんですね。そう思って窓の外を眺めると、赤茶けた煉瓦の壁に黒い鉄の階段を這わせたビルの窓、窓にはふつふつと野心と失意とがうごめいているようです。

soho.JPGここでも連句の連日のセッションやパーティーがあります。会合以外の自分の食事は買い物して料理__といきたいところですが、日程が忙しいし、ここのキチンはあまり設備がよくないので、下のホテル隣接の小さい食品屋さんで缶づめとパンと野菜を買ってきてサンドイッチを作るくらいです。空き時間にホテルの周辺の道を少しずつひとり歩きして探検してゆきましたら、二つむこうのストリートにしゃれたフランスパン屋さんがありました。ここでローストビーフやハム、七面鳥のローストをスライスしてパンにはさんでもらいます。果物もそこから5分ほど行った小さなスーパーが新鮮です。もちろんここにはミルウォーキーやサンフランシスコなどにあった大スーパーはないのです。
地下鉄の駅のそばにはマフィンの専門店もありました。
近藤一家の部屋に上がってゆくと、二つベッドの部屋二つに居間もついています。ちょうどソファーに、ニューヨークでの世話役のディーさんが座って連句会の計画を相談中でした。
お世話して下さった方へのお土産の扇子を手にとって、「何と書いてあるのか」
と尋ねられて、蕉肝さんが英語で説明しています。あら「ところどころに雉子の鳴き立つ」__芭蕉の歌仙の一部です。
するとディーさんが「ああ、その句は知ってる」とうなずいて、テーブルのまわりにちょっと沈黙が流れました。
私もですけれどみんながその句の情景を思い浮かべたのですね。
こういうちょっとした交流が感動となって忘れられないのがこの旅なんです。ええ、あたり前ですけれど、詩は言語の壁をこえ、イメージとして共有されるのです。
クリスさんがコーヒーをいれるのを手伝います。
「あのね、アメリカンコーヒーのちゃんとしたいれ方ある?」と聞きました。
「ないよ。薄いだけよ」
えっ。

太腿が焦がれた文学散歩!

この日私たちはシェルダンスクエアでバスをおりました。にぎやかな街角で、厚いノートをもったミンナさんが私たちを集めます。
「これからグリニッジビレッジに住んだ文学者たちの遺跡を案内します。今日のために調べたのですが、実は私たちもこんなふうに見学してまわるのは初めてです。」
かんかん照りのニューヨークですが通りを折れると、建物は高いし、街路樹はたっぷりと葉を広げていて、そう暑くはありません。
「この家にーーさっそくミンナさんがガイドします。「ノーベル賞詩人カサリンポーターが住んでいました。二階だそうです」
平凡な赤レンガの建物はどの窓も赤いよろい戸を開き、白いカーテンがぴったり閉まっています。でも私たちはそのカーテンの奥に想像を凝らししばし沈黙。
そのすぐ裏側の四階建ては1830年代から50年にかけて黒人奴隷を売っていたのが発覚し、スキャンダルになった家でした。
憧れと悪徳とが背中合わせに住んでいる街角を、私たち十人ほどの日米混成グループがぞろぞろ歩いてゆきます。
近くに「最後の一葉」の舞台もありました!木の茂った広い芝庭の奥の三階建ては、いま労働者のアパートになっていますが、その階上の一室でオー・ヘンリーの娘さんが病の床についていたのでした。
第三パブリックスクールーー公立小学校は夏休み中で人がいなく只今工事中です。
その向い側、セントルーク教会をのぞきます。
「1929年に建った教会です。デュラントマスもここで葬式をしました」とミンナさん。すると私の背後から声。
「このあたりはハドソン川の重要基地でもありました」
白い髭、背の高い詩人コーさんです。
そういえばここはハドソンストリート。でも川はもっと西へ平行移動しているのでした。教会の庭にも大ねずみのようなリスがちょろちょろと木にかけのぼっています。
「ホーリーツリー」とコーさんが指さした木はヒイラギでした。

観光ガイドに出ていないこの街を知らずに通ればただの住宅街です。でもこうして案内してもらうと、一つの壁も窓も、敷石も街灯も、たくさんの人々の生きてきた跡なのだとしみじみと親しくなりますね。
禁酒時代にもお酒をのませていたというバーがありました。昼のこととて休業のバーの狭い階段をどかどかと音をたててはいっていくと、暗い部屋の中に黒光りした厚いテーブル。字がいっぱいきざんであって、触るとでこぼこなんです。
ぐるりの壁には帯のような飾り窓が作ってあって、本が陳列してある?kinsyu.JPG

「表紙だけです」とコーさん。「常連客が出版した本の表紙を記念に展示しているんです」「有名人ばかりですよ」と蕉肝さん。奥の方に通路があります。手入れの時の逃げ道。アッそういえば入り口の狭さの割に逃げ道は広い。なるほどね。
モンタンストリートは広々と風が渡り、映画のセットによく使われるとか。昔の上流階級の家が多いようです。ここでケーリーグラントがーなんて楽しい夢の中をさまよっていると、ずっと先から呼ばれてしまいます。
「早くゥ!」
とことこ走って(日本では最近走らないなあ)ミンナさんの説明を蕉肝さんにきき直します。
「えっ?何?ハァ?フンフン。1789年、この家のアレキサンダーハミルトンが財務長官と決闘して翌日死んだ?」因みにそれ以来決闘は禁止されたのだそうです。
ポーの「アッシャー家の崩壊」も史実にもとずくのでした。アッシャー家が燃えた後は草地になり、今は公園の運動場になっています。
運動場を囲む高いフェンスに花の小さい青い朝顔がたくさん巻きつき、そろそろ枯れかかっています。ここも夏の終り。
おやフェンスのそばで若い二人ー。詩人のお母さんについて参加してきたハイスクールの娘さんとボーイフレンドなんですが、腰に腕をまわしあって軽くキス。ふうん、親がいるところでキスか!感心している私です。

三時間の充実した散歩の終着地は「白馬」というビヤホールでした。文人詩人のたまり場ですって。私たちはデュラントマスの銘碑のかかった壁の下に陣どりました。彼はここでウィスキーを十七杯飲んで死んだんです。
乾杯! ああビールがおいしい!
ミンナさんが「〝ここで1992年8月・日米連句詩人語り合う〟という記念碑も残さなくては」大笑いして、それではーーと歌仙を始めます。発句は今日ご苦労さまだったミンナさん。

her burnning thighs/thefatwoman/after the long wajk MInna
1 散策の後の太腿焦がれつつ   ミンナ

「私は肥ってるから、きょうの散歩でいま腿がすれて熱くって!」ですって。
また大笑いして後が続いて付きます。

Japanese& American poets/drunk inthe shade日米詩人緑陰に酔う      真空
awhite horse/seems galloping/ to the milky way
白馬は天の川へとはやるらん    藍
now only themoon/over the bridge Cor
今や月のみ残る橋の上     コー

という具合なんですが、ここでコーさんが「腿は二本ある」といいました。
「だからこの発句で二巻歌仙を巻こう」
そこでニューヨーク滞在中私たちの間には右腿歌仙と左腿歌仙がかけめぐり、絶えまなく付け句をすることになるのです。

1her burnning thighs/thefatwoman/after the long wajk MInna
2shining on the bather/the pale moon  Shinku
行水テラス青白き月 真空
3the movie camera/come very close/for the close up
映写機をぐっとアップに近づけて 藍

マンハッタン日米連句狂い

dance.JPG reikosasa.JPG

夜おそく地下鉄グランド駅の階段を上がってくるとむっともののにおい。
ソーホーの街角はがらんとして時々車が走りぬけ、散った紙くずが白々と目立ち、フェンスに囲まれた公園にはホームレスが寝ています。
こんな所とても一人歩きはできません。ニューヨークへきて水を得たようにふてぶてしい顔と肩つきになった蕉肝さんとか、ディーさん、ジョンさん、マーシャルさんなど屈強の詩人さんたちといっしょです。
ここニューヨークではツアーの大半がセッション以外の時間は観光に行きますけれど、真空さんと私はこちらの仲間に合流することに決めてしまいました。
歩いているだけではなく、実は連句もしてるんです。
グリニッジビレッジ散歩のあと始まった「右腿・左腿」二歌仙を滞在中に仕上げなければなりませんからね。
蕉肝さんと私は何かというと紙をとり出して「えーと、ジョン!ここは夏の句を」
なんていうのです。
ジョンさんには「一難去ってまた一難」の英語版を教わっておきました。
out of frying pan into the fire!
「フライパンから飛び出して火の中へ」が直訳ですね。しめしめ。これを連発して笑わせながら付け句要求。ええ、私の片言英語はどんどん図々しく積極的になっているのであります。

地下鉄を乗りつぎハドソン川をくぐり対岸のホーボーケンに渡ったのもこのメンバーでした。
ここはマンハッタン島のベッドタウン。昼はマンハッタンへ仕事に行き夕方帰ったら着がえてまた川を渡り遊びに行くんですって。
対岸のマンハッタンの国連ツインビルやエンパイアステートビル風景の絵葉書の写真の撮られる所と聞いて川岸に行ってみたのですが、残念!また霧にさえぎられてほとんど見えませんでした。
訪問先は、クリスさんの弟ジェフ夫妻のアパートです。
アハハ、また連句をしようというのですよ。私たちのすべての行程にビデオカメラを携えて現れるミンナさんもちゃんと先にきていました。ちょうどハリケーンが近づいているとかで私の発句はやや物騒です。

ハリケーン来たれハドソン連句行    藍
コーヒーたっぷり満月満潮    ジェフ

ジェフさんはマンハッタンにスタジオをもつトップカメラマン。奥さんのダイアンさんはジャズダンサー。この旅で出会うクリスさんの親類は芸術家が多いんです。姉さんや妹さんも子連れで集まり、この日はなかなかデリカシーのある半歌仙が巻き上がりました。

暗くなっての帰りはバスです。これもまたハドソン川の下のトンネルをくぐってマンハッタンへ。何となくまだ遊びたい気分のメンバー、ディー、ジョン、蕉肝、真空さんたちと寄り道することになりました。
地下鉄に乗り換えて七番街へ。おや敷石にエイズの予防広告のようなもの。こういうところは下を向いて歩くから効果的なのかしら。
夜の街角は人の波です。しかも前後左右なんとさまざまな人種が歩いていることか。はぐれてはたいへんですから、半ズボンにナップ姿のディーさんの後ろ姿を追いかけています。
蕉肝さんが高層ビルの説明の合間に「あ、ストリートガールがいる」と声をひそめました。
「どうしてわかる?」
「そりゃあ、雰囲気」
その所在なさそうに車道を背に立って歩道の流れをながめている女の人はそう若くも見えませんでした。
「商売のチャンスは二度あるんです」
まず七時。ブロードウェイで何の劇を見ようかなとぶらりと出てきた男たちをねらう。次は九時。もちろん劇場からどっと出てきたお客のなかから。
ふうん、なるほどねえ。
おや、ディーさんがだいぶ先へ行ってしまいました。人混みを縫い、走ってしまいました。追いかけます。
「どこへ行くんですか?」
ディーさんは返事をしたけれど私にはききとれませんでした。ま、いいや。
これまでも50%意思疎通で、あとは信じてなんとか過ごしてきて、結局いつも楽しいことばかりでした。つまり蕉肝、クリスさんがいい友だちをたくさんもってるってことなんですよね。
結局私たちはマリオットホテルの展望台へのぼったんです。エレベーターの所に「ここを見ないでマンハッタンを語るな!」って書いてありました。展望台の回転レストランでビールを飲みます。
ディーさんがスコーを教えてくれました。スカンジナビアの乾杯です。
グラスを目の高さに上げ、グラスの上で相手の目と目を合わせ「スコー」といいあいます。
「スコー」
「スコー」
sukoh.JPG蕉肝さんがかばんから紙をとり出します。また、右腿・左腿連句がはじまるのです。
ディーさんもジョンさんも胸ポケットからシャープペンシルを出します。
私たちのまわりをキラキラと高層ビルの群がまわってゆきます。
「15度動く間に一句付けるというのはどうですか」と真空さん。なんてまあ狂った仲間たち。
ガラスの向うにいつか見馴れたエンパイアステートビルが少しずつ遠ざかってゆきます。

名残の薔薇に詩が燃えて

satoh.JPG marcial.JPG

 表紙の黒地に朱色の蛙が手をついている One hundred frogs(百匹の蛙)を去年の四月、市図書館の古典講座で受講生にまわしました。な、なんで古典の講座で英語の本を?
 ええ、この本には「古池や蛙とびこむ水の音」の百種類もの英語が紹介されていたのです。英語百種ということは解釈百種ですよね。芭蕉という超有名人の、超々有名なこの句とは何なのか、今年の講座は「野ざらし紀行」をよみながら一年、まだそのテーマから離れきらずに、来年度にもちこみそうです。
ところで私はその本の著者佐藤紘彰さんにもニューヨークでお逢いできたんですよ。ジェトロに勤務のかたわら日本の詩歌(古典から現代まで)を中心にかずかずの翻訳、紹介の本を出されてきたヒロアキさんのもとへは、ニューヨークを訪れる日本の文人がたくさん訪れているという話もきいていました。そうした一人でもある作家中上健次が八月末に亡くなり、ヒロアキさんのマンションでは、健次追悼のパーティーが開かれました。真空さんと私はいつもの連句詩人仲間と出かけたのです。出席者は日本人とアメリカ人と半々。生前の健次の人柄を語る懐かしいスピーチのあと、「熊野集」が日本語と英語とで朗読されました。ヒアリングがだめな私ですから英語の方はじき集中力をなくし、きれいな音楽のようにして聞くのです。
そうして紀南のうっそうとした自然。土の匂いのする男や、野生的な女の肌の白い輝きを思い浮かべている――。
でも、視線のむこう――ヒロアキさんの書斎の机の前の大きな窓には、エンパイアステイトビルディングがキラキラと光を灯しているのでした。
このマンハッタン中心部の高級マンションに私たちは旅の最後の日にもう一度招かれます。今度は国際連句協会の一員として。じゃ、連句すっか!
例の右腿・左腿歌仙を仕上げましょう。ヒロアキさん、お願いします。
「ぼくは恋句が好きなんですよ」
「でも、ここ秋がほしいんです」
「じゃ、しっぽり濡れましょう」

32  いつも濡れたる草の葉の露         紘彰
always wet/dewy grass blade Hiroaki

「藍さんも濡れなさいよ」
「そうしましょうか」

深く深く釣瓶落ちゆく井戸の底         藍
deep and deep/the bucket drops/into the bottom of awell AI

何いってるんでしょうねえ。ヒロアキさんは雑誌にのせた歌仙を見せてくれました。えっ「寝乱れ歌仙」って題?
テリさんという美女をお相手のエロチック歌仙なんです。何せ発句と脇が

リムジンであなたの触るやるせなさ       テリ
春の光に挟まれたる手             紘彰

負けるなあ。

アーサーズ58

この日はアメリカ最後の晩です。翌朝は空港を発ち一路日本へ――。
だからパーティーがすんだら私はまっすぐホテルへ帰り、トランクをつめるつもりでした。
このところずっと朝も昼も晩もほっつき歩いて連句で騒ぎっ放し。その前日も昼はコロンビア大学での連句討論会。夜はジェフさんのスタジオでのパーティーでしたものね。いつも私はとことん夜更けまで残っていて全く帰り支度をしてません。
今夜こそと決心してたのに、なぜか夜十一時、ヒロアキさんのマンションを出た私は、ちゃんと寄り道族の中にいました。
コーさんと奥さんのリーさんを先頭に、蕉肝さんと私と、パーティーで出会ったマリさんと。このマリさんはプロのダンサーで、ニューヨークで二ヶ月留学中というお嬢さん。またまたニューヨークの雑踏をぬい英語で日本語で問い返し、おしゃべりしながら、とっとと歩いている私です。
すっかり馴れた夜の地下鉄に今夜でお別れですもの。最後ですものね。
「そうですよ。五時に帰ればいい」と蕉肝さん。「八時出発だから、荷物なんか二時間で作れますよ」ホーダホーダ。
その晩はね、今のニューヨークで二ヶ所しか残っていないという黒人ジャズの生演奏の酒場の一つへ行ったんですよ。あのグリニッジビリッジ散歩の時にも教えてもらったアーサーズ57というお店。ちょうどコーさんのお気に入りの女性歌手メーベルさんが出てたんです。ピアノも歌も迫力だった。ぎっしり立ってる人の間をもぐりこんでかぶりつきのカウンターで見てたんですから。メーベルさんはピアノに指をひっきりなしに走らせながら、大きな目をぐるぐるさせお客にしゃべりかける。声がかかる。どっと店じゅうが笑う。その声も黒ずんだ柱や天井、ランプ、ビールのグラスまでもピアノのリズムにがんがんのって揺れているよう。とび入りの黒人のお兄さんが歌いだす。
うまいんだなあ、これが。
ピアノの奥で白人の大柄な女性が、ギリシャの彫刻みたいな端正な横顔を見せて、すっくと音をたて、ベースを弾いています。腕と肩だけが激しく動きます。
「ぼく、ああいうタイプ好きだなあ」
と蕉肝さん。あのね、クリスさんに似てましたよ。
翌朝、ジョン・F・ケネディ空港にはまたミンナさんの姿がありました。この空港に一週間前に私たちを迎えたミンナさんは、一人一人にピンクのバラを手渡してくれました。夜のキッチンに吊るしておいたそのバラは色が濃くなったので、その日私の黒い服の胸にピンでとめてたんですよ。

1 秋空の雲や自国へ帰る友               ミンナ
acloud/ in the autumn sky/friends leaves for home  
2金のトンボに月の盈食                  蕉肝
for the golden dragonfly]/moon swax and wane
3 詩が燃える名残の薔薇も色増して               藍
poetry enflames/the last rose/ deepens its hue
4つぶらな瞳あふる優しさ          真空
in the lovely eyes/overflowing kindness shinku
5汗染みたビデオカメラを何処へでも クリス
videocamera/carried everywhere/sweatsoaked strap Kris
6ロックビートが飛ばす夏ばて     安奈
rock beat blows away/summer fatigue Anna

(表六句 秋空の雲 at JFK8,30,199;11-11:30am)

最後の最後まで連句のアメリカ一ヵ月の旅は、みんなの心が燃えて、ええまだ私はホットですよ。(完)

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