アメリカ連句行(朝日新聞文化欄 掲載)

もくじ

1.言語の壁越え理解を深める 個の社会に広がる「人間関係文学」
2.地球のリズムに触れる季語 日本にない季節を詠む
3.恋句で連想「伊勢物語」・句の間つなぐ面白い話

(矢崎藍 朝日新聞文化欄 1992年 10/1 10/2 10/3)

言語の壁越え理解を深める 個の社会に広がる「人間関係文学」

(朝日新聞 文化欄1992/10/1)
ここ数年人気急上昇中の連句に海外からの関心も高い。国際連句協会(近藤クリス会長)はそれに応え、この八月に北米連句ツアーを企画。近藤正(成溪大学教授)・クリス(工芸短大講師)夫妻をリーダーとする日本の連句人がカーメル、サンフランシスコ、サンタフェ、ミルウオーキー、ニューヨークと、一か月にわたる連句の旅をした。各地での実作参加者は日本人十二人、アメリカ・カナダなどから八十八人、のべ二百三十二人で歌仙半歌仙など二十六巻を巻いて帰ってきたーーー。
北米で連句実作を楽しむ人は意外に多い。もちろんハイク人口の増加がベースである。ハイクの親である連句は、実はバショー(芭蕉)理解にも欠かすことができない。
一方ノーベル文学賞作家のオクタビオ・パスなど先端的な詩人たちは、ロマン主義以降の詩のゆきづまりを連歌・連句のような集団による詩制作により打開しようと提案してきた。大岡信氏の海外での連詩も注目されている。
ハイク機関誌の連句作品に登場する名は全米で五百人以上。連句の作品コンクールさえある。
「ただ作品は文音(手紙)です。彼らには肝心の座の経験がほとんどないんです」と近藤さんは言う。顔付き合わせての座に働く判断の流れ、即興制作の緊張感、そして仲間との楽しい共感ーー作品には見えないものを体験し、本当の連句を知ってもらおうというのがこのツアーの主目的である。
しかし英語と日本語混在の場でそんな連句ができるのかーー。もっていないでもなかった懸念はじき消えた。どの座でも近藤夫妻が通訳を奮闘してくれたおかげもある。でも、結局はお互いの句を理解し合えるかーーなのである。

      アン王女のレースゆかしき秋の旅            藍
         moonlit paths/mesh for a while
            (月かげの径しばし交わり )       ダグ 

ミルウオーキーでの私の発句に出てくる「アン王女のレース」は、その地に一面に咲く白い花。しかしゆかりが知りたいという意味を含む「ゆかし」を訳すのは難しい。クリスさんと私だけでなく一座が話しあった末、nostalgic とする。 そうした上で付いた英語の脇句である。レースの花に月光がさした。小径が一本になり、また分かれる情景が「ゆかし」によりそう。 このとき付け句は六人で十数句出ているが、この句を選ぶのには全員が賛成した。 さて三句目は、

      a child dreams/pinecornes popping/in the fire
                (子らの夢松ぼっくりが火にはぜて )      ケント

松ぼっくりの炎の色の美しさをケントさんがいきいきと話す。私たちは彼とともにその夢を見る。
言語の壁は議論や雑談で補われる。恋句では日米のデート事情を比べて大笑い。日本での座と変わらない楽しさだ。
参加者の感想もそれを裏づける。
「仲間と句を創るのは孤独でなくていい」
「自分の詩が選ばれなくても何度もトライした」
「そうよ。その場の勢いで句はテイッシュみたいにつながって出てくるわ」
「各句の作者名はあっても、作品全体はみんなのものだね」
問題はある。まず季節。北米大陸の中だけで気候帯がちがう。各地のハイク協会で季語がまとめられつつあるが、共通認識には年月が要りそうだ。それに定型のこと。575と77の句を英語では普通三行詩、二行詩とするが、内容の量、リズムともあまりに自由すぎないのか。この課題はハイクと共通している。今回のツアーでは、討論・講演会も盛況だった。同行の福田真久国士舘大学教授が俳諧史を講義する。伝統的な式目や転じの智恵など、細かい基礎知識の資料も配った。
「ルール(式目)があると創りやすい」「これまでただ連想だけで詩をつらねていて、転じを知らなかった」
という感想がかなり出た。
三句目で転じ、変化してゆく機能は連句の生命だから、それが知識と実作を通じてわかってもらえたのは、成果だった。多くの人と出会い語り続けた連句の旅である。
サンタフェの詩人たちとは、「複数による唱和の詩は字をもたぬ時代のどの民族にもあったのではないか」という話をした 詩で会話するという、多くの文明が捨てた喜びを、私たちの先祖は愛し、追究し、芸術の形式にまで育てたのである。(日本はシルクロードの終点で、文明が通りすぎず発酵する国。地理的条件に恵まれ、小さい文化が守られたと私は考えている)
今の世界でユニークな詩型式である連句は、人類の求める普遍性も持っている!
「ジャズに似ている」「ホログラムのようだ」「映像芸術に近い」
ーー連句は(たぶん原初的で未分化であるゆえに)即興性、対話性、知的ゲーム性、パフォーマンス性と多くの性格をかかえこむ。
近藤さんはニューヨークで、連句朗読に即興のモダンダンスをあわせる実験をした。「連句はポストジャンルです」と彼はいう。そんな連句をアメリカの文化の未来への方向と一致するとみるのは元アメリカハイク協会会長のビル・ヒギンソンさんである。
「1950年代、朗読する詩人がこの国のカフェを席捲して以来、詩人たちは文字を離れ、人の中にはいり、ともに語ろうとし続けてきた」
ーーと彼はいう。個の社会の国アメリカに、人なつこく入りこんだ連句はいわば「人間関係文学」といえる。各地にできた拠点からの広がりが楽しみである。

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アン王女の巻を巻きおえて一座乾杯!

地球のリズムに触れる季語 日本にない季節を詠む

(朝日新聞 文化欄1992/10/2)
米国連句の一座では、仲間の髪、皮膚、目の色がカラフルである。しかも少し話すとそれぞれが遠い先祖の故国を持っていることがわかる。アメリカ文化の中に生きながら、移民してきたファミリーの記憶は、スカンジナビアだったりイギリスやウクライナだったりする。現在国籍の違う人もいる。大陸自体の歴史をさかのぼればインディアン文化がある。そこで日本の伝統文化のレンク(連句)をする私たちだ。鑑賞してもらうのでなく〝共にする〟のである。季語はいつも問題になる。
「駒鳥の姿はニュージャージーでは春のしらせです。しかしサンタフェではクリスマスのころ駒鳥がたくさん止まっています」
米大陸は広い。季語などなくていい、というハイク詩人もいるらしいが、最近は季語派が多いそうだ。
討論会の席上、季語によって小さな自然の変化に目をとめることを知り、人生観が変わったという発言もあった。ある女性は「感じることです」という。「そうすれば一年中気温の変化のないカリフォルニアにも夏や秋があることがわかります」日本の伝統的な季語のシステムに従うことで、地球のリズムに触れることができる――と評価するのは、アメリカハイク協会の会長経験者のペニーさんである。
ところで連句の季節には季語だけでない側面がある。四季の句と無季(雑)の句を一巻(歌仙なら三十六句)にバランスよく配分する。人事自然の森羅万象の素材に時のサイクルも取り込んで、ひとつの宇宙を表現するのである。
サンタフェの赤土のアドベ建築の学校での実作中に、コスタリカからきたアルバロさんがこんな質問をした。
「私の国には四季のほかに雨季と乾季がある。例えば雨季の句は季節の句の資格がないのですか」。
バングラデシュのカーンさんもいう。
「私の国でも春夏秋冬に雨季と乾季をくわえて季節は六つある。タゴールがそういう詩を書いていますよ」
それどころかカーンさんは
「実は夏のつぎにくる乾季と秋の間にもうひとつ、どの季節ともちがう透明な美しい季節があるんですよ」
ともつけくわえる。私たちはその連句参加者(連衆)によっては一巻にそんな特別な季節の句もいれていいのではないかと話し合った。ではその場で雨季乾季の句が出たかというとそう簡単でもない。雨季といわなくても、雨季を象徴する素材(それを煮つめたのが季語である)が要るのである。その民族が雨季・乾季をじっとみつめる歴史的な過程が必要なのかもしれないなどと、私は考える。
でも、カーンさんはこの日こんな挙げ句を作っている。

      a sitar plays/spring*s bounty(シタールつまびく春の豊穣)

バングラデシュでは穀物のとりいれが二回。日本の季語の麦の秋よりもっと華やかな、これは春の黄金色の収穫の喜びの句なのだ。日本人が知らない季感が詠まれること、そしていずれは知らない季節も詠まれていく可能性――それは連句の未来の楽しい広がり方といってよいのではないか。
一方、説明が必要なのは月の座と花の座である。共に千年昔からの日本固有の文学的美意識である。それでも月は天体だからわかりやすい。満月より新月を尊重する国もあるけれど、月の美しさはだいたい共感がある。では、花の座は?日本の桜の花は彼らにはあくまでもエキゾチックな美しさであって実感ではない。
この旅でも「flower」の座といえばライラックやパンジーや花束の句が続々と出る。近藤正・クリス夫妻は相談して途中で木の花の咲いている「blossom」の座という表現にかえ、句に特定の花の名を避けさせた。

         warm stone/the quiet of the past(石の温もり過去のしずもり)     キャシー
   stop now/the blossom speaks/the unspoken(止まれいま語らぬ声を語る花)    ダイアン 

春の石の前句とともに感動のある花の句である。ただ、日本人には桜の花の風景でも、ダイアンさんたちがほかの木の花を思い浮かべている可能性はある。アメリカ人が、説明なしに英語でこの連句を読み、「blossom」の単語の花の句で、何の花を 思うか?
「バラの花と思うかな」とクリスさんも笑う。地域によってはハナミズキかもしれないという。日本でも花の座のハナという意味は本来華やかさの極という抽象的な意味である。代表は桜であるけれど、花火(秋または夏の花)花嫁(雑の花)も時には許されるから、一巻の盛り上がりを確保する力(ハナ)をもつのなら、バラのイメージでもいいともいえる。
 それとも日本の連句の伝統美意識である桜の美こそを主張すべきか? 詩の形式が外国へ出るということは、その形式の中の必然性と普遍性を具体的に問われることなのである。

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サンタフェ。藍、クリス、ビルヒギンソンさん

恋句で連想「伊勢物語」・句の間つなぐ面白い話

(朝日新聞 文化欄1992/10/3)
米国連句でも恋句は楽しい。

くつろげば互いの想いふくらんで         ダグ
   どこの隅にも君のママの目          クリス 

読みあげると、男性たちがどっと笑った。娘の母親たちの監視はだいぶきびしいらしい。

  瀑布の響き遠くかなたに            ジョン 

これはさりげないやり句である。これに夏の恋句をつけてもらう。日本人だと浴衣がけの恋にでもなるところ。でも、ここで付けたのは、カナダハイク協会の会長で、連句の勉強のためニューヨークに泊りこんでいるマーシャルさん。

     just you/naked and careless/under the ceiling fan

天井にファンがくるくるまわっている。ちっとも警戒心のない彼女の裸! 少し苦労して「天井ファン君の裸は何よりぞ」と訳してみた。(もっといい訳があったら教えてください)。それにしてもまさに滝の音も遠のくおおらかな景色。みんなでひとしきり鑑賞した。日本ではこういう句は珍しい。だいたい伝統の恋の美の最高理念は「あはれ」なのだ。現代連句でも、屈折し、抑えられている恋句が多い。575と77での恋の美が歴史的にも個人的にも追究されて、句とはひねるものであるという見方もある。でも、表現だけでもないかな。ある年代以上の日本の女で、恋人の前でこうのびのびと脱ぐ経験をもつ人は少ない(――のではないかと私は思う)。恋は万国共通だが、生活感、倫理感はすこしずつちがう。
ニューヨークの連日の連句会・講演会の合間には、数人でハドソン川対岸のホーボーケンへ渡った。クリスさんの弟の写真家ジェフさんとジャズダンサー、ダイアンさん夫婦の家を訪ねたのだ。目的はやはり連句。ちょうどハリケーンが近づいていて、私は「ハリケーン来たれハドソン連句行」なんて景気のいい発句を出し「ハリケーンの巻」である。
このときは恋句を楽しむため、出た付け句をぜんぶ公開して、皆の意見をきいたのだった。
中で一番人気があった句が、

       clear intention/candles at dinner    Dee

「直訳すると〝明快な愛の意図、ディナーのキャンドル〟ですね」
と近藤正さん(成蹊大教授)が教えてくれる。
私はやや不満である。愛の告白だけでなく、もう少し具体性がほしい。そういうと、アメリカ生活も長い近藤さんは
「キャンドルに具体性がありますよ」
と笑う。
「キャンドルはね、こちらでは意味がある」
クリスさんが説明してくれた。――恋しい彼女がキャンドルを立てて彼をディナーに招いた――これは愛の表現である。
私は「だから、〝愛の表現〟だけじゃ恋句として弱い」
といって、また笑われる。
「この愛の表現ってことは、このあとベッドインOKってことよ」
いい年をして私のニブいこと!
まあこうやってアメリカの恋の条件や手順もちょっとずつわかるのだ。この句をこう訳して私は納得した。

      今夜いいわと告げるキャンドル  ディー

一ヶ月の連句行ではこんなたぐいの話題がたくさんある。ケノーシャの詩人カールさんは「連句を初めてしたが、伊勢物語のようだ」といった。句の間に、面白い話が入ってはつながっているからだそうだ。日本の古典文学の流れに、こういうおしゃべり心を見るのはまちがいではないと私は思う。
この旅の最後のパーティーは、ジェフさんのマンハッタンのスタジオで開かれた。
例の「ハリケーン」の巻を発表したのだが、このときこの連句の連衆でもあったダイアンさんに、朗読にあわせて創作ダンスを踊ってもらった。
連句にレオタード!でも、内容はハリケーンから始まり「今夜いいわ」のキャンドルもある。
恋でないドラマもあった。この半歌仙の後の方、11句目から挙句までを書いておく。

  前線の写真家頭上弾かすめ        福田真久
     視界の果てにつかみたる距離      ジェフ
   平原に出でたる月の血の赤さ        ディー
      ハイウェイづたい蛍かずかず     ミンナ
   観覧車振り回される解放感          ダイアン  
     石の温もり過去のしずもり         キャシー   
   止まれいま語らぬ声を語る花          ダイアン   
      駒鳥見えし餌台の下            ローラ     

ダイアンさんがしなやかな肢体を躍らせ、スタジオいっぱいに表現してくれたダンスは、たぶん連句ダンスの事始めである。
「連句は実作そのものがパフォーマンスである。でも、作品の発表にもパフォーミングをしてもいいんじゃないか」という近藤正・クリス夫妻。国際連句は、未来にむかって楽しく発進である。

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ニューヨークのpoet's house。中央近藤正・藍・福田眞久